小さな栗の実とわたしの平和

小さな栗の実とわたしの平和

見たくないものを目に入れるのが嫌というより(もちろん見ないで済むならそのほうがいいに決まっているけれど)、そういうものに対してもきちんと心が動き、なにかしらの感想を持つことに、最近のわたしはとても疲れていたのだなぁと思う。ほかのさまざまなスキルと比べて、「切り替える」はわりと得意なほうだと思うけれども、どれだけうまくやれたとしても感情の残骸は澱のように少しずつ少しずつ残っていく。そうやってわたしの中にたまったものは、自然に消えてなくなったりしない。自分で(あるいは誰かの知恵や手を借りて)きれいにするしかない。

そう考えると、つくづく変な話だよなぁと思う。見なくていいものを見て、持たなくていい感想を持ち、切り替えた末にたまった澱を自分で処理する。なんて不毛!一瞬、それならいっそ何も見なければよいのではという考えがよぎるけれども、たぶん、それはそれで流れがよどみ水が濁る、みたいなことになるんだろう。何かを見て何かを思い、そうしてたまった澱をきれいにする。それを繰り返していくしかないのだとしたら、目に入れる情報の量やペースを調整しつついい塩梅を目指している今のわたしは、なかなか好い線をいってるのかもしれない。

きのう、窓の外を眺めていたら、となりの栗の木に小さな実がついているのに気づいた。階下でごはんを食べていた18歳に「栗の実がなってるよ!」と伝えると、「おお、もう秋だねぇ」と言って笑っていた。特におもしろくもない冗談に、なに言ってんの、バカじゃないのと笑いあえること。わたしはそういうものに平和を感じる。そして、争いも過干渉も冷笑も、まずは手の届く範囲からなくしていこうと強く思う。