さめたと聞くと「冷めた」のほうが先に浮かぶのはわたしだけだろうか。さめたという言葉の響きには、春とは名ばかりのちょうど今ごろ、朝起きて外に出た瞬間のキーンとした冷たさがある。
自分の心の拠点をどこにするかについて考えたとき、家族やおうち、日記帳の次に思い浮かんだのはここだった。もともとここを作ろうと思ったのは、ネット上でも自分の居場所を持っておきたかったから。そう考えると、希望どおりの場所になっているということか。
SNSにはSNSにしかないよいところがたくさんあって、わたしはその一部分がとても好きだ。ただ、全体でみるとさまざまな意味で負荷が高すぎるため、わたしにとって安心安全の場所とはいえない。なんていうんだろうな、人がたくさん行き交う通りを歩いている感じ。聞きたいこと、見たいものだけではなく、さまざまな人たちの感情や日常のなかをくぐりぬけていくような感覚。それはある意味とても刺激的でおもしろい体験だけれど、ときどき想像もつかないような方向からダメージをくらったり、望んでいないものに心を占拠されたりすることもあって、どうにも落ちつかない。落ちつかないところに長居すれば落ちつかないに決まっている。
結局のところ、わたしの日常をおびやかすのはわたし自身なのだ。ままならないこと、どうにもならないことはもちろんある。けれど、何をどう選ぶか次第でけっこう変わる、変えられるものだなぁと思う。
覚めた心で迎えた立春の日々。吹く風と空の色、ふくらみはじめた雪柳の芽に早めの春を感じている。
