新しくて古い車と嫌いの表明

新しくて古い車と嫌いの表明

数日前、我が家に新しくて古い車がやってきた。今まで乗っていた車より古いっていうんだから、そりゃもう古い。もちろん中身はメンテナンス済みだから快適に動くんだけれども、そうはいっても中古車なので。お互いにいつくるかわからない終わりのときまで(わたしたちが長生きするならもう1台くらいは乗るかもしれないけれど)、手を入れながら丁寧に乗り、楽しい思い出をたくさんつくろうと思っている。

わたしには、長いあいだ保留にしている考えごとがある。それは「嫌いの表明って必要なのか?」ということ。時と場合、あとは相手にもよる。とか言っておけば、おそらく正解に近い答えになりそうなんだけれど、正解することが目的ではないので、それだけじゃあ不十分なんだよね。時と場合ってどんなとき?どんな場合なら必要?どんな相手には不要?そのあたりを考えて考えて考えても答えを出せず、うまく言葉にできず、ここまできてしまった。

そして今朝、ついにそのときがきた。洗濯物を干しながらぼんやりしていたら、さあっとさわやかな風が吹く感じで「ああそういうことか」とわかったのだ。なんの脈絡もなく突然、ポイントは「何を共有したいか」だなって。まあ、わかったというとアレなんだけど、自分のなかで合点がいったというか、ふわふわ浮かんでいたものがストンと地上に降り立ったみたいな。そんな感じ。

ここ数年のわたしは、SNSで「◯◯が嫌い」「◯◯なんてクソつまんない」みたいなことを言う意義がわからなくて、そういう投稿を目にするたびにもやーんとしてた。ここ数年っていうのがミソで、それ以前のわたしは誰かと誰かの文句を言って楽しんだり、嫌いなモノをけなしたりして盛り上がることがきちんとあったし、それをきっかけに知り合った人もたくさんいた。でもなんかねぇ、そういうふうに繋がった人とは結局何かや誰かの文句でしか繋がれないんだなーって思っちゃって、それでその手の付き合いからは身を引くようになった。ただ、自分には必要ないものが他人にとっては大事な場合もあるじゃん。以前のわたしには必要で、今のわたしには必要ない。その違いをずっと考えていて、あ、そっか、今自分が何を共有したいかが違うんだなってひらめいたんだと思う。

たとえば、周りの人たちが好きって言ってるものをどうしてもいいと思えない、わたしだけがそう思っているのかなって孤独を感じてるときに、SNSで「わたし◯◯がどうしても好きになれないんだよねー」と言っている人を見かけたら、ひとりじゃないんだってうれしくなることがあるかもしれない。っていうかあるよね、絶対。あるいは、あまり理解はされないけれど大事に思っているものについて、「実はわたし◯◯が好きで」って言ってる人を見つけたら思わず声をかけたくなるほど高まったり、静かに幸せをかみしめたりすることだってあるでしょう、きっと。

今、このとき、何を共有したいか。「嫌い」の表明もそのなかのひとつだなと思ったら、これまでのもやーんがすうーっと消えちゃった。自分でもびっくりするんだけど、きれいさっぱり。

そのうえで思うのは、やっぱりわたしは、あの映画のここがめっちゃ好きとか、今日見た夕焼けがきれいだったとか、じゃがいもがおいしかったとか、思わぬ気づきとか、そういうものを誰かと共有できたらいいなってこと。そして、SNSみたいな場所で嫌いを表明するときには、それを好きな人たちがたくさんいる場所だということを心の真ん中において言葉にしようと強く思う。